道に志し、芸に游ぶ

中国・北京在住(2018.8~)。主に読書記録。歴史/社会/言語/教育関係がメイン。

(読書記録)小川幸司『世界史との対話(下)』

世界史との対話〈下〉―70時間の歴史批評

世界史との対話〈下〉―70時間の歴史批評

 

 (上)(中)とこれまで読んできた『世界史との対話』シリーズですが、ついに先日読了しました。

会社の昼休みに読み終えたのですが、最終講の第70講は読みながら泣けてしまうほど感動。宇宙の誕生の話から始まり、第70講では福島原子力発電所の件で筆者の「世界史との対話」が幕を閉じます。下巻では第一次世界大戦から扱うのですが、500ページ近くに達する大部です。実に筆者の「世界史」の3分の1以上が、第一次大戦以降の100年弱に割かれているのです。そして想像に難くありませんが、話の大半は「戦争と人間」が主たるテーマとなります。そして、この重いテーマを貫きながら、「いのちに対するまなざし」に迫っていくのが、この下巻の最も大きな主題と言えるでしょう。

 

いきなり最後の第70講の話に触れてしまいますが、筆者は世界史との「対話」を、過去に生きた人々の「いのちの環」を、未来へつなぐ営みであると述べています。私が胸を震わせながらページを繰ったのは、広島の原爆で被爆した作家の林京子さんが、アメリカで最初に原爆実験が行われたトリニティ・サイトを訪れた際に感じたことを記した文章を引き、「批評」を行った箇所です。林さんは、世界で最初の「被曝者」はこの大地であることに思いを致します。私たちは“地球のいのち”に揺籃されながら生きていますが、それは私たちだけの特権なのではなく、これからまだ見ぬ将来を生きていく“未来のいのち”の、そして同じく地球上に生きる生命、皆が共通に享受するものです。“地球のいのち”に対するまなざしはすなわち“未来のいのち”に対するまなざしであり、このまなざしを育んでいくことこそが世界史の目的であると筆者は考えます。

私が世界史講義のなかで目指したのは、“未来のいのち”を大切にできるような生き方とは何かを、137億年の宇宙と700万年の人類の歴史のなかから考えることでした。

(中略) 「世界史との対話」=「歴史批評」とは、歴史を素材に好き勝手なことを言うことではありません。歴史を素材に、“未来のいのち”に対峙して、自分たちがどんな生き方をすべきなのかを考えていくことです。それは、同時代の自分と世界のあいだだけでなく、「過去」と「未来」のあいだにも、いのちの環をむすんでいくことなのです。「現在」の妨害にあう困難性を自覚しながらも、決してあきらめずに、“いのちの環”を未来につなげていくことです。

この“いのちの環”に触れるエピソードを、第一次世界大戦から戦間期第二次世界大戦、冷戦、そして現在と世界史を辿るなかで、日本統治時代の朝鮮でその土地のために植林を続けた人物の話、ショア―(ホロコースト)のなかで「自然」と対話を行ったユダヤ人の話、ベトナムでの従軍中に「いのち」の誕生に接したアメリカ人の話、死の直前に目の前の母娘に「いのち」を託した広島の少女の話など、筆者は豊富に用意しています。単なる暗記ではない歴史、そんなものはとうに超えて、「いのち」の通った歴史を筆者は辿っています。

 

 数あるエピソードのなかで、私の胸に特に深く刻まれたのは、マルクスが『資本論』のなかで唱えた資本主義批判の本質をついたものと、ナチスドイツと戦前日本で共通して見られた、無自覚のうちに戦争への道を歩んでしまう現実の脆さを述べた箇所です。

 

前者について、マルクスは資本主義の極致を人間の「物象化」であると指摘したことが重要であると述べています。すなわち、人間を資本を元手に利潤を生みだす「労働力」というきわめて無機質な存在として捉え、そこに通う「いのち」に目を向けないという点です。これに関しては、現在の社会に対しても鋭い批判を与えるものと思います。昨今のニュースを見ていると、ある一定の条件やインセンティブを整えれば人間は自然と“合理的に”のその選択をし、その結果社会がいい方向に向かっていくはずだという、一人ひとりの人間の「心」や「いのち」を軽視している政策があまりにも多いのではと感じます。その背景にあるのは、経済を回す要素としてのみ人間を扱う端的な「物象化」なのではと思います。

後者について、ナチスも戦前日本も、狂気的な指導者が合理性を欠いた決断として戦争を積極的に選び取っていったのではなく、その周囲にはその不条理と悲惨な結末を想定できる人物が多数いたにもかかわらず、「このぐらいなら大丈夫だろう」「現状ではこれしか選択がない」という状況追随的な思考を積み重ねていったことで、悲劇的な戦争につながったと筆者は指摘します(日本で言えば昭和天皇が、戦争を止める権限を持ち合わせていたにもかかわらずその選択を取らず、また周囲の人々も「天皇の尊厳を傷つける可能性がある」という理由でその発動を是認しなかったのでした)。学部の卒論執筆をとおして戦前日本の政策決定をわずかながら学びましたが、まさにそのとおりであると思います。一つ一つの決断は戦争につながるものとは思えません。ましてや、(私の扱った文化事業は特に)平和につながるものとすら思えることもあります。しかしその決定のヴェールの内側に潜む実態を見誤れば、戦争という結果につながってしまう危険性があるのです。こうした悲劇を引き起こさないために、私たちは歴史を学ぶ必要があるのだと思います。

“小さな同意” と“状況追随的な思考”というのは、現代を生きる私たちにも日々突き付けられている問題です。その過ちを批判するだけでなく、その過ちを回避することがいかに困難であるかということを自覚することが、歴史を学ぶ大きな意味であると私は考えています。(中略)そのときどきの指導者も国民も、人間としての理性や感情をもって、自分としてはベストの選択をした結果として、戦争が引き起こされてしまったとみる歴史の批判の仕方(共感的理解をふまえた批判)が、必要なのではないでしょうか(p.314)

 (上)の記事でも書きましたが、「人間や世界の多様性」という“普遍性”を探求することこそ人文科学の究極の目的であり、それは多様なこの世界の人々が、相互に理解しながらより善く生きていくために存在しているのだと私は考えます。その点で人文科学の一端である歴史、世界史も、多様な人々がこの世界に過去に生き、彼らの声を失わせることなく受け取り、未来へつなぐという極めて重要な意義を有していると思います。

人文科学が「役に立たない」と言われ、軽視される風潮のある昨今ですが、人文科学の衰亡は異なる他者に対する想像力の衰亡につながると危機感を感じます。同様に、歴史の軽視、単なる暗記としての歴史、さらには自身の正当化のために用いられる道具的な歴史も、過去を未来につなぐ橋脚が失われるという点で、由々しきものだと思います。とは言え、歴史とはそのように利用されてしまう運命にあるものでもあるので(あくまで選択的に描かれるものなので)、大切なのはそれをニュートラルな視点で眺め、他者に対する共感の足掛かりにする「まなざし」を鍛えることだと思います。

筆者に述べるような歴史に対する「まなざし」を私自身これからも学び続け、また広めていければと思います。