道に志し、芸に游ぶ

中国・北京在住(2018.8~)。主に読書記録。歴史/社会/言語/教育関係がメイン。

(読書記録)渡辺靖『沈まぬアメリカ――拡散するソフト・パワーとその真価』新潮社

沈まぬアメリカ 拡散するソフト・パワーとその真価

沈まぬアメリカ 拡散するソフト・パワーとその真価

 

 文化人類学アメリカ研究を専門とする著者による、“American Legacy”についての論考。章立ては以下のとおりです。

第一章:ハーバード――アメリカ型高等教育の完成
第二章:リベラル・アーツーーアメリカ型高等教育の拡張
第三章:ウォルマート――「道徳的ポピュリズム」の功罪
第四章:メガチャーチ――越境するキリスト教保守主義
第五章:セサミストリート――しなやかなグローバリゼーション
第六章:政治コンサルタント――暗雲のアメリカ型民主主義
第七章:ロータリークラブ――奉仕という名のソフト・パワー
第八章:ヒップホップ――現代アメリカ文化の象徴
終章:もうひとつの「アメリカ後の世界」

 本著は2015年の刊行。トランプが大統領として選出されたのが2016年なのでその前に議論にはなりますが、「アメリカは今でも“覇権”と言えるのか」「アメリカの影響力はいまだ健在なのか」といった議論は、現在でも多く起こっているのではないかと思います。

ソフト・パワーという側面から、全世界を覆うレベルで広まっているのではないかと思われるアメリカの影響力の光と影について、本書では論じられています(筆者はそれを「アメリカン・レガシー」と呼称しています)。

この本を読んで感じたことは、「アメリカの影響力は依然として健在。しかしそれが「アメリカ」というナショナリティーに色付けされたものでは必ずしもない。というより、「アメリカ」のナショナリティーそのものが世界のどこへでも沁み込んでいく普遍性を持っているからこそ影響力があるのでは」ということです。

例えば、第五章で紹介されている子ども向けテレビ番組「セサミストリート」の事例を見てみます。

同番組には、「人種や身分の分け隔てない教育」という核心を成す信条が込められています(p.109)。またその信条は、幼いころから教育の形で施すことで「差別や偏見、無知は知性や理性の力によって克服し得る、いや克服しなければならない」という「アメリカ流のリベラリズム」の発想が底流しています(p.113)。

この信条を押し付けるかのごとく他国へ流布させているわけではありません。セサミストリートアメリカのパブリック・ディプロマシーの一環を成す要素ですが、同番組を制作するセサミ工房は、現地の情勢を綿密の調査し、現地のテレビ局や専門家と幾度にもわたって協議を行いながら、その土地の教育的課題にローカライズされた形で現地版のセサミストリートを作成していきます。

 すなわち、「「教育」という普遍的なテーマを軸にしながら、きめ細やかな現地化を通して世界各地に広まって」いきます。つまり、一つのパッケージとして流布されていくわけです。この普遍性・一般性・パッケージ性がアメリカ発の文化の強みなのでしょう。これは「文化帝国主義」という言葉で形容されるような手法とは相いれないのではないでしょうか。

また、そうしたパッケージを当てはめる形が妥当なのか、それも各国が直面している課題です。こうした葛藤を引き起こすこともまた、アメリカン・レガシーの一つであると筆者は指摘しています。

 この点で、アメリカの文化は依然として大きな影響力がありそうです。しかし、そこに「アメリカ」というナショナリティーが付与されているかと言われれば、やや疑問です。つまり、「アメリカの文化だから」受け入れるわけではなくて、単に「いいパッケージだから」受け入れられるのではないでしょうか。

この「受け入れやすさ」こそ、これら文化の強みなのではと思います。それもそのはず、アメリカの文化は、ある意味世界中からの「移民」によって形成されたものです。それゆえ、世界のどこででも流通する普遍性というものを最初から兼ね備えているのではと思います。ブロードウェイのミュージカルも、「英語がそこまでわからなくても面白い」という「誰でも楽しめる」点にその魅力があります。

 筆者はアメリカを「巨大国家を絶対的な権力者ではなく「市民=デモス」が主体となって統治するという、人類史上類を見ない「実験国家」」と形容しています。この「市民」主体という点に、この普遍性のカギがあります。市場ベースで政策もコンテンツも広まっていくという価値観にも顕れているとおり、この「市民」に受け入れられなければ何事も成り立ちません。そしてこれら「市民」は世界中から集っており、きわめて多様性に富んでいます。したがってそのコンテンツも多様性に鑑みたものとなります。

 この際立った特徴が、アメリカ文化が世界各地へ沁み込んでいく大きな要因なのではないでしょうか。いわば「理念の輸出」とも言えるでしょう。昨今のパブリック・ディプロマシーでは自国の価値観やナショナリティーを大きく打ち出すものも見られますが、こうしたパッケージ性、あるいは対象国という「ハード」になじむように「ソフト(パッケージ)」を考えていくという意味での「ソフト・パワー」という在り方にも着目すべきではとも思います。

とはいえ、グローバリズムの反作用を振りかざすようなアメリカの現政権が、こうした理念の輸出を今後どう行っていくのかは、また別の議論が必要なのかもしれません。