道に志し、芸に游ぶ

中国・北京在住(2018.8~)。主に読書記録。歴史/社会/言語/教育関係がメイン。

(読書記録)西山教行・細川英雄・大木充『異文化間教育とは何か:グローバル人材育成のために』くろしお出版

異文化間教育とは何か ―グローバル人材育成のために (リテラシーズ叢書)

異文化間教育とは何か ―グローバル人材育成のために (リテラシーズ叢書)

 

 教育をつうじた異文化理解の増進が最近の関心事項なので、タイトルを見て本書を手に取りました。上記3名が編者となってまとめた、「異文化間教育」にかんする論文集となっています。

章立ては以下のとおり(括弧内は執筆者)。

第1部 ことば・文化・アイデンティティ

序:今、なぜ「ことば・文化・アイデンティティ」か(細川英雄)

第1章:異文化間教育とは何か(フランシス・カルトン

第2章:「共に生きる」社会形成とその教育―欧州評議会の活動を例として(福島青史)

第3章:ことば・文化・アイデンティティをつなぐ言語教育実践(細川英雄)

第2部 言語教育から異文化間(インターカルチャー)へ

序:異文化間教育とはどのように生まれたか(西山教行)

第4章:複数文化と異文化間能力(ダニエル・コスト)

第5章:複言語能力の養成―大学の国際化の挑戦と課題(ダニエル・モーア)

第6章:間を見つける力―外国語教育と異文化間能力(姫田麻利子)

第3部 異文化間(インターカルチャー)と人材育成

第7章:異文化間市民教育(マイケル・バイラム)

第8章:グローバル教育の立場から見た異文化間(インターカルチャー)と人材育成(キップ・ケイツ)

第9章:継承語・継承文化学習支援と異文化間教育の実践

 さて、まず本のタイトルにもある「グローバル人材」とは、どのような人材を指すのでしょうか。巷にあふれたこの言葉ですが、文部科学省の定義に従えば、以下のようになります。

世界的な競争と共生が進む現代社会において、日本人としてのアイデンティティを持ちながら、広い視野に立って培われる教養と専門性、異なる言語、文化、価値を乗り越えて関係を構築するためのコミュニケーション能力と協調性、新しい価値を創造する能力、次世代までも視野に入れた社会貢献の意識などを持った人間((産学連携によるグローバル人材育成推進会議 最終報告(2011年4月)

 本書ではタイトルにもあるとおり、「異文化間能力」を有する人材をグローバル人材とし、その育成のための教育を「異文化間教育」と称しています。そして、その教育内容は単に外国語や外国の文化にかんする知識を埋め込むことはではなく、言葉を用いて、自分以外の他者とどう関わって社会を構築していくか、そのために自己のアイデンティティをどう変容させていくかが重要とされています。

本書では、言語教育は外国語の教授のみならず、この異文化間能力の養成において重要であるという立場を各論者が取っています。

日本に限らずどの国でも、学校教育を経ればその国の国民であるというアイデンティティが育まれます(近代以降、まさにそれが学校教育の目的でした)。しかし現代においては、言語や文化の異なる「他者」と協働し、共生しなければならない機会がますます求められています。

その際に必要となるのは、自分だけのモノサシで判断せず、相手のモノサシを許容し、互いに納得できる「落としどころ」を探っていく姿勢です。その際、自己のなかに単一のアイデンティティのみならず、相手に寄り添える複数のアイデンティティ(相手の目線に立って見る能力)が求められます。その能力こそ「異文化間能力」であえると言えます。

自己の中に複数のアイデンティティ(軸)を作っていくイメージでしょうか。そして言語教育がそのために有用とされます。鈴木孝夫『ことばと文化』でも触れましたが、言語とは文化を映し出した鏡のようなものです。

言語教育が異文化間教育を含むのであれば、教育はもはや言語知識を習得し、コミュニケーションの実践にとどまらない。言語はコミュニケーションの道具であると共に文化でもあれば、言語学習も文化の学習を意味する。(中略)異文化間教育は学習者のアイデンティティに注目し、学習者が外国語学習を通じた出身文化への目覚めから出発する。とはいえ「異文化間教育」は、学習者が自己の文化や価値観を捨てることなく、他者の価値観や文化を知ることを求める。文化を学ぶとは、異なる社会の異なる構造を知ることもでもあり、そのためには、他者を分析するまなざしを学ばなければならない。(中略)つまり学習者は自己ののまなざしの相対性を学び、時には異なる文化との出会いによって引き起こされる不安にも耐え、他者に対するステレオタイプに陥らないことを学ぶのである。(p.66)

このような教育の実践が、第6章、第9章などで紹介されています。

先の文科省の定義では、「日本人としてのアイデンティティ」を強調している点が目立ちます。異文化間教育でも上記のとおり自己のアイデンティティを放棄することを求めてはいませんが、大切な点は、「自己」が絶対ではなく、異なる他者がいると想定することで自己を相対化する目線を持つことだと思います。言い換えれば、「日本人」という「自己」をいったん薄め、「多様な文化を持つ人が生きるこの世界の一人」というレベルに一段抽象化する、ということではと思います。

その点で、第2章の福島青史氏の「シティズンシップ教育」としての異文化間教育は、大変面白く有意義なものだと感じます。世界市民主義ではありませんが、すべての人が「ともに生きる」市民性を育むための教育です。

こうした教育を行うためには、教師の専門性も求められます。日本語教師で言えば、日本語の知識のみならず、相手国の文化や言語に対する知識、そして協働の場を創出する機転も必要となります。第8章ではそうした教師の養成について説かれていますが、これは容易ではありません。

学習者が「正しい日本語」を扱えるようになることが目標の現場もありますが、特に公教育の現場では異文化間教育としての日本語が重視されつつある国もあり、そこでは「正しい日本語」の教授もさることながら、日本語学習をつうじた異文化間能力の養成が必要とされます。特に中国ではその傾向が大きいのが最近の動向です。

『ことばと文化』でも触れられていましたが、その言語を使えるようになる、それだけが評価指標とされる外国語教育ではなく、自己を相対化する方途としての外国語教育の重要性が、今後認識されていけばと思います。