道に志し、芸に游ぶ

中国・北京在住(2018.8~)。主に読書記録。歴史/社会/言語/教育関係がメイン。

(読書記録)小川幸司『世界史との対話:70時間の歴史批評(上)』地歴社

 

世界史との対話〈上〉―70時間の歴史批評

世界史との対話〈上〉―70時間の歴史批評

 

 長野県の県立高校で世界史を教え続けてきた先生による著作。70時間で、宇宙の誕生から現代までを講義するというスタイル。
 筆者の小川先生は、ご自身の世界史講義で「世界史の「知」の三層構造が見えるようにする」ことを心掛けているそうです。何年にどこで何が起こったか、すなわち「「事件・事実」の列挙」にあたる第一の基層、その事実の歴史的意義を読み取る「解釈」にあたる第二の基層、そしてこれら二つの層に立脚しながら、「歴史を素材にして人間のありかたや政治のありかた、ひいては自分の生き方について「歴史批評」をおこなう、という「知」のいとなみ」の第三の基層です。そしてこの第三の基層にあたるご自身の「歴史批評」を紹介しながら、講義の受け手にも「批評」を促すという趣旨で世界史の物語が進んでいきます。

 上巻では宇宙の誕生から英仏百年戦争までが語られます。まず驚かされるのが先生の圧倒的な読書量と知識量。宇宙誕生を描く第1講で触れられる自然科学から、思想や哲学に至るまで、さまざまな分野に触れながら古今東西の人間の営みを述べつつ、ご自身の「歴史批評」を語ります。各講の末尾に列記された「ブックガイド」が、その読書量を教えてくれます。
 考古学の研究成果を引きながら「ネアンデルタール人の心を覗いてみる」という第1講から始まる「歴史批評」は、一般に広く知られている、あるいは信じられているような「歴史」あるいは価値観を揺さぶり、相対化する視点を提供してくれます。これこそ、読者自身の「歴史批評」を促すものでしょう。
 例えば第1講では、「“争いの本能”をもたなかった」ネアンデルタール人が滅亡し、ホモ・サピエンスが台頭していくプロセスは、ある意味では「欲望達成のために、もっと言えば“自分のために”、お互いを殺しあうという行為を、全地球上にバラまいたということになるのではないでしょうか」という問いを投げかけます。猿人からの「発展」という単線的な図で自明の「事実」として示されがちな歴史教科書の扉にあたる部分に、「批評」という問いが投げかけられ、読者の視点は揺さぶられます。

 上巻をとおして(あるいは本シリーズ全体をとおして)感じた筆者の“まなざし”は、「言葉」によって語られる言説の危うさと相対性です。歴史そのものが取りも直さず「言葉」によって書かれ、語られるものですが、それはしばしば恣意的な取捨選択を伴います。また、同じ「言葉」で語られていても、受け手によってその受け取り方は変わります。また、「言葉」という手段を持たないがゆえに「弱者」の立場に置かれてしまう人々もいます。世界史とは、世界各地に生きた人々の「言葉」を学ぶ学問だと思いますが、同時に、そこに書かれた「言葉」の意味、「言葉」として書かれなかった歴史的事象や人々にも思いを馳せ、それらから自分の生き方に対する「批評」を紡ぎだすプロセスの極めて大きな意味があるのだと思います。
 例えば、第5講「ヘロドトスとトゥキュディデス」では、トゥキュディデスがペロポネソス戦争後のアテネにおける煽動政治による内乱の時代を『歴史』に描くことで、「“全体的原因”としてアテネの帝国意識を分析しながら、“言葉の乱用”という人類の本質」を明らかにしたと述べています。世界史の教科書ではるか昔のこととして書かれてしまう煽動政治(デマゴーゴス)に見られる“言葉の乱用”は、言葉の信用性低下と暴力への契機となり、歴史上幾度となく繰り返され、現代政治においても見られます。
 また、第10講「ブッダの「犀の角」、ウパニシャッドの「心臓の光」」では、ガウタマ=シッダールダの導きを引きながら、「事実の重み」は“言葉づら”だけで理解できるものではなく、自らそこに至る行為を積み重ねることによってはじめて理解できるという「批評」を披露しています。
 多様なエピソードを引きながらそれら「批評」が語られるので、飽きることはありません。事実を淡々と脳に焼き付けていく世界史学習に一石を投じる本書は大きな刺激になりました。

 私自身、すべての人文科学の知の意義は、(絶対普遍の真理(法則)を求める自然科学とは異なり)「世界は多様である」という多様性を追究することにあると考えていますが、本書は世界史という学問から、その知の在り方を見事に体現していると思います。

 多様な「文化」の魅力をとらえる、しなやかな“まなざし”を忘れないようにすること…。これは“過去”を見つめて“未来”を考える者が、まず肝に銘じなければならない学規である、と私は考えています。(p.35)

まさに上記のとおりだと思います。各時代を懸命に生きた人々の多様な営みを、多様なまま(自身の定規に当てはめずに)受け入れるレッスンが徹頭徹尾貫かれています。