道に志し、芸に游ぶ

中国・北京在住(2018.8~)。主に読書記録。歴史/社会/言語/教育関係がメイン。

(読書記録)マックス・ウェーバー(中山元訳)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』日経BP社

 このあまりにも有名な古典について、いつものごとく感想をまとめるのもどうなんだろうとは思いますが、所感の記録のためにやってみたいと思います。日経BP社から出た中山元訳で読んでみました。章立ては以下のとおりです。

第1章 問題提起

 第1節 信仰と社会的な層の分化

 第2節 資本主義の「精神」

 第3節 ルターの天職の観念――研究の課題

第2章 禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理

 第1節 世俗内的な禁欲の宗教的な基礎

 第2節 禁欲と資本主義の精神

第1節では、ドイツ内の各地域における職業統計を調べてみると、資本家や企業所有者、そして教養の高い上層の社員たち―「近代的な企業のスタッフで技術的な教育や商業的な教育を受けている人々」―には、「プロテスタント的な性格の強い人々が圧倒的に多数を占める」という気づきをもとに、問題提起を行います。

これに対しウェーバーは、現世的傾向の低いカトリックに対し、プロテスタントには現世的利益追求を肯定する内的親和性があり、それは純粋に宗教的動機によるものであるのではないか、との仮説を立て、以下それが論証されていくという形です。

 第2節では、「資本主義の『精神』」とは何かとの定義が行われます。章題にもあるとおり「精神」と鍵括弧が振られているのがポイントです。

資本主義における核心的な思想について、「利益を獲得することが人生の目的そのものと考えられているのであって、人間の物質的な生活の欲求を充足するという目的を実現するための手段としては考えられていない」という点を指摘しています。

前資本主義の世界では、「その日生きること」が生産の目的であり、そこには余剰や利益という考えはありませんでした。もちろん蓄えという発想はあります(そうでないと閑農期に生きられません)。それでもやはり目的は「生きること」です。相応の生活で事足りた、ということでしょう。

しかし、資本主義の思想では「(無限に拡大していく)物質的欲望を充足すること」が目的とされます。その日生活するだけでは足りない、もっともっと欲望を充足させていくことが是とされます。

しかし、この発想は「伝統主義」、すなわち「人は『生まれながらにして』金のために働くのではないし、できるだけ多くの金を稼ぐために働くのではない。ただ生きることを、しかもそれまで慣れてきた方法で生きることを望むのであり、それに必要なだけ稼ぐ」という発想とは対峙します。この伝統的発想を越えるには新たな価値観が必要とされます。資本主義的行動が是認される、あるいはそうしなければならないと行動に駆られる価値観―すなわち「精神」―です。

その精神をウェーバーは「天職(ベルーフ)」であると指摘しています。すなわち「仕事が絶対的な自己目的であるかのように労働する心構え」です。この価値観が普及するのには「宗教的教育」が大きな役割を果たしたと指摘します。「人間が存在するのは仕事のためであって、人間のために仕事があるのではない」という、ある意味コペルニクス的な発想転換です。

こうした転換が発生した事実を、歴史的に説明する試みが、本著の眼目となります。

第3節では、天職観念の萌芽をルターの思想に求める論が展開されます。

贖宥状の販売や修道院での生活など形式化・形骸化したカトリックの思想に対し、「人は信仰によってのみ義とされる」と主張し、宗教改革の中心的人物となったマルティン・ルター。彼は「修道院で過ごすような生活は、神の前で自分を義とするためにはまったく価値のないものであるのは自明」と考えました。「現世の義務から逃れようとするものであり、利己主義的でおもいやりのない心から生まれたもの」だとします。

対して、「世俗的な職業労働」に対し、「隣人愛が外的な行動として表現されたもの」だとしています(ウェーバーはこの発想を「奇妙な論理」と両断しますが)。この、世俗の職業生活に道徳的な性格をあたえたことを、ルターの業績のうちで後世に最大の影響をもたらしたものであると指摘します。このルターの論理は、のちのカルヴィニズムやピューリタニズム、メソジスト派などのプロテスタント諸派に底流していきます。

 

このルターによって萌芽した資本主義の精神は、以後どのようにして世界大に拡大していくのか。またそこに宗教による影響はどの程度あるのか。

その論証にあたり、第2章第1節でまず、禁欲的なプロテスタンティズムの担い手として4つの流れを挙げます。すなわち、カルヴィニズム、敬虔派、メソジスト派、再洗礼派から生じた教団(ゼクテ)です。

 そのうち重要なのがカルヴィニズム(カルヴァン派)の思想、とりわけ「予定説」です。フランスに生まれたジャン・カルヴァンによって唱導された予定説は、神によって救済されるかどうかは神によって予め定められている」という恐るべき発想です。つまり、救済されようと聖書を一生懸命読んで、あるいは修行して、「神様助けてください」とお願いしても、仕方がないのです。

人びとは困ります。どうしたら救済されるのか――この段階で、「各個人が、これまで例のないほどの内的な孤立を感じるようになった」とウェーバーは指摘します。

「(予定説によって)人々が教えられたのは、人間は永遠の昔から定められた運命に向かって、一人で孤独に歩まなければならないということだった」。すなわち、「教会や聖なる礼典によって救いをえられる可能性を完全に否定した」のであり、まさに「世界を呪術から解放するという宗教史の偉大なプロセスが、ついに完了した」のでした。

形式的な贖宥状を買いに続け、現世と遮断された修道院で清貧な生活にいそしまなければならないことから解放された点では、「脱呪術化」と言えるかもしれません。しかし同時に前述のとおり、人びとは、自分の運命は神に予定されているというかつてない孤独に陥ったのでした。

どうすれば、自分が救済されるよう神に予定してもらえるか。その手段として現れたのが、ルターによって提起された職業労働の観念でした。労働をし、隣人愛を具現化する行為を行う。こうした労働は次第に、それ自体が「神に望まれていること」「神の栄光を高めること」と解釈されるようになります。それは社会的な利益のために役立つからです(ここでもウェーバーは「非人格的」行為と言い切りますが)。

 自分の運命が神にどう予定されているかを知る術はありません。しかし「自分が『選ばれた者(エレクティ)』の属していることを認識できる」こと、「自分はこんなにやってるんだから大丈夫!」と自己認識できるために、職業労働の価値が高められていきます。

 この、「救いの確証」を得るよう意味が付与されて、職業労働は絶対的な価値観―疑いの余地のない「倫理」あるいは「精神」―となったのでした。その点でカルヴィニズムの予定説は、「心理的に傑出した力をそなえていた」のです。

 こうした職業労働に黙々と従事することはある意味「禁欲的」です。修道院に籠らずとも世俗に属しながら禁欲する、この「世俗内禁欲」は、性質の差はあれどもプロテスタント諸派に共通した思想的バックボーンでした。

最後の第2節第2章で、こうした個々の世俗内禁欲の倫理が、いかに社会全体を包み込む精神と化したのかについて論じます。この「天職」の観念は、次第に経済的な秩序(コスモス)として発展していきます。

職業労働は神の栄光を高めるものです。どうすればそれが最大限に高まるのか。各人の富が増大し、社会が発展していくこと、社会が発展すればするほど神の栄光は高まるというふうに解釈されていきます。富の増大には「合理的な」労働が必要です。すなわち、合理的に職業の義務を遂行することが「道徳的に許されているだけではなく、まさに(神によって)命じられている」という風潮が出来上がります。

 合理的な労働の行き着く先が、実業家のもとに集約的に行われる近代的産業形態であることは想像に難くありません。実業家(資本家)は、労働の倫理遂行の意志を持った労働者を集約する。彼らを雇用し富を生み出すことで、その実業家本人も倫理を遂行したことになる。こうした解釈により、「近代の実業家は、利潤の機会を追究することが神の意志であると解釈されることになって、倫理的な輝きを放ち始めた」のでした。

 ここに、禁欲的な営みとして価値を付与されていた職業労働が、富を獲得すればするほど価値が高まるという凄まじい逆説が起こります。「世俗の職業を弛みなく、不断に、組織的に営むことは、そのままで最高の禁欲的な手段とみなされた」。

しかし、生み出された趣味を娯楽などの消費することも非倫理的とみなされた(人々はあくまで労働のために生きるので、余暇はあくまで労働のための休息期間で、金銭を消費する時間ではありません)ので、余剰は節約により溜まっていきます。その余剰は再生産に投下せざるを得ませんが、これは「資本」に他なりません。こうして「資本」が形成され、資本主義の開花へと至りました。

市民的な職業に特有のエートスが発生した。市民的な実業家は、形式的な正しさという制限を守って行動し、倫理的な令状において咎められるところがなく、財産を使用する際に他人の迷惑になることがなければ、神の完全なる恩寵のうちにあった。そして神から目に見える形で祝福を与えられているという意識をもって、営利活動に従事することができたし、そうすべきだったのである。

それだけではなく、市民的な実業家は宗教的な禁欲の力によって、真面目で、良心的で、異例なほどの労働能力をそなえた労働者を雇用することができたのであり、労働者は労働を神が望まれた生活の目的と考えて、熱心に働くのだった。(p.480)

 「働かなければ神に救われない」――このような精神で労働に駆られる生活は、息苦しい以外の感情を覚えません。ウェーバーも最後の段で、人びとは「鋼鉄の〈檻〉」に閉じ込められていると皮肉します。そして、有名な以下の一文により、本論を締めくくります。

将来、この鋼鉄の〈檻〉に住むのは誰なのかを知る人はいない。そしてこの巨大な発展が終わるときには、まったく新しい預言者たちが登場するのか、それとも昔ながらの思想と理想が力強く復活するのかを知る人もいない。あるいはそのどちらでもなく、不自然きわまりない尊大さで飾った機械化された化石のようなものになってしまうのだろうか。最後の場合であれば、この文化の発展における「末人」たちにとっては、次の言葉が心理となるだろう。「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう。」

 

今から100年前のウェーバーの指摘。「神に絶対服従しなければ」という精神で労働する人はもういないのではと思います。しかし、この「鋼鉄の〈檻〉」は、「がんばることが価値」という見えない圧力となって、今なお社会を支配しているのではないでしょうか。

「一億総活躍」「女性も輝く社会」…活躍しなければならないのか。輝かなければならないのか。こうしたスローガンはそうした目に見えない「鋼鉄の〈檻〉」のなかに、私たちを閉じ込めているのではないかと思います。そしてその檻の中に閉じ込め、「富を生み出すことが絶対的価値」であると措定し、富を生む出す営為に人々を借り出しているのでは、あるいはそのための方便にすぎないのでは、と思ってしまいます。

 どう生きることが「正しい」のか、そんな基準はないと思います。各人が各人らしく生きることこそ、社会の全体的な発展につながるのではと思います(また、社会の発展を個々人が目指す必要はなく、結果としてそうなるのではと思います。人は生まれながらにして「社会的(社会を志向する)」存在なので)。「正しい生き方」を突き付けるのは頭のいいひとでも、ましてや権力を持った人でもなく、それを考えるのは私たち自身です。

この本で指摘されているのは、そうした〈檻〉がいかに克服が難しいかです。目には見えません。また、周りの人々が「絶対的倫理」と信じて疑わないものを疑うのは、なかなか難しいことです。それを可視化し、問題として提起することこそ、彼がその源流の一人とされる社会学の意義なのではと思います。見えない「社会」というものを可視化する、ということです。

またそれは、昨今軽んじられている人文社会科学全体の使命であると思います。見えない〈檻〉を見ようとする眼差しが廃れてはなりません。

 

随所にウェーバーの批判的精神が表われていて、刺激的でとても面白かったです(また、訳文も非常に読みやすかったです)。

 

やはり現在も読み継がれる古典的研究は、どの時代にも通用するメッセージを発し続けているからこそ残る、と改めて思いました。これまでなんとなく避けていた古典ですが、そこに込められた叡智をこれから少しずつ学んでいきたいと思います。