道に志し、芸に游ぶ

中国・北京在住(2018.8~)。主に読書記録。歴史/社会/言語/教育関係がメイン。

(読書記録)鈴木孝夫『ことばと文化』岩波新書

ことばと文化 (岩波新書)

ことばと文化 (岩波新書)

 

  こちらに来てから週に一回中国語のレッスンを受けていましたが、とある回で先生と、「日本語は日本文化か」という議論になりました。文化を扱う項目を日本語の授業のなかでどのように行うかという趣旨の文章を教材にしていたためでした(仕事柄使うような話題を題材にしていました)。その先生は、言語の授業でわざわざ文化の話をする必要があるのかという問題を提起され、疑問を感じているようでした。

 私は、言語とは文化そのものなのだから、文化の話をせずに言語を理解することも理解させることもできないので、文化の話は必要です、という趣旨のことを言いました。自分も中国語を大学で学ぶとき、文化の話もたくさん聞いた、と。先生は腑に落ちていなさそうな雰囲気でしたが、もしかしたら「文化」という言葉で思い起こす内容がそもそも違っていたのかもしれません(先生は「日本文化」というと、茶道など伝統芸能を想起されて、それをわざわざ取り上げる必要があるのかと思ったのかもしれません)。

 そういった「伝統文化」をわざわざ取り上げる必要まではないと思いますが、仮に文化を、「人間の行動を支配する諸原理の中から本能的で生得的なものを除いた残りの、伝承性の強い社会的強制(慣習)の部分」と定義するのであれば、まさに言語は文化であるので、その「文化」、すなわち言語の構造や性質に影響を及ぼしている社会的あるいは歴史的背景は、言語の学習において必要不可欠なものだと思います。そして『ことばと文化』の著者・鈴木孝夫先生も同じ考えで、この本は「ことばというものが、いかに文化であり、また文化としてのことばが、ことば以外の文化といかに関係しているのかを、できるだけ平易なことばで明らかにすること」を目的としています(p.i~ii)。

 各章では、ことば(言語学)をめぐる基本的な視座が、わかりやすく面白い事例を引きながら解説されています。特に面白かったのは、「1 ことばの構造、文化の構造」「6 人をあらわす言葉」です。

 1では英語を事例にして、自国語と外国語を一対一の関係で結び付けることができないこと、つまり外国語の語彙に対訳を当てはめるような形でその意味を把握するのには落とし穴があることを解説しています。例えば、英単語の"break"。"Who broke the window?"や"He broke his leg"という文章だけを見れば"break"とは「(窓を)割る」「(骨を)折る」という意味だと思えてしまいますが、"I broke a big watermelon in two with a knife"とは言えませんし(この場合は"cut")、"I broke a piece of origami"とも言えません(この場合は"fold")。辞書を見ると"break"の項目には①こわす ②やぶる ③おる ④きる…と意味を列挙する形で説明がなされていますが、その意味一つ一つを覚えても真に「使える」ようにはならず、"break"は「刃物以外の外力を急に加えて、何かを二つ以上の離れた部分にする行為」といった形で、包括的なイメージで捉えることが重要になります(p.14)。日本語における「折る」「割る」という行為と、英語における"break"という行為とは「世界の切り取り方」が異なるためです。

 中国語を勉強していてもこのようなことはよくあります。このあいだ例の中国語の先生に”那天我要去干活儿”と言ったら、ワハハと笑われてしまいました。「仕事をする」という意味で「干活儿」と言ったつもりだったのですが、これは「力仕事をする」ということだそう。先生は私が工事現場で仕事すると思ったようです。この場合は単に「要去工作」でよかったのですが、変なことを言おうとしたのが間違いでした。辞書を引くと単に「仕事をする」としか書いていないのですが、「仕事」に対する見方(切り取り方)が日本語と中国語では異なったのでした。

 最近英語も少し勉強しているのですが、辞書を使って意味を調べようとするとこの種の罠にはまってしまうことが多いです。そこで最近では辞書に頼らず、スマホで検索してその語を使った実際の文章を見てみることにしています。そうして、どんな場面やフレーズでその語が使われているのか、ぼやっとした「イメージ」を把握する方が後々応用につながるためです。特に動詞や形容詞は意味範囲が広いので、意識しています。

 言語を学ぶ目的や意義において、その言語が使えるようになることは案外二の次で、この日本語をは異なる「世界の切り取り方」を少しでも多く学ぶことに、重要な意義があると筆者は指摘しています。

文化というものは、このような、当の本人が自覚していない、無数の細かい習慣の形式から成立しているものであって、この、かくれた部分に気付くことこそ、異文化理解の鍵であり、また外国語を学習することの重要な意義の一つはここにあると言えよう。

(中略)ことばというのものが、世界をいかに違った角度、方法で切りとるものかという問題を、学生が理解するようになることの方が、遙かに意義があり、しかもどこでも、誰にでもできることなのである。

  もう一つ面白かった6では、自分がだれか人を呼ぶ際の呼称について、筆者の研究成果から論じられています。英語の"I"や"you"は「人称代名詞」と呼ばれ、これらの語は文のどこにあっても「私」「あなた」を指す要素として作用します。しかし筆者は、このような人称代名詞は日本語には存在しないことを指摘しています。たしかに、「お父さんあれ買って~」と子どもが言うときの「お父さん」は間違いなく「自分の父親」という人を指す言葉として作用していますが、一方で「お父さん」は単なる名詞で、「あれは太郎くんのお父さんです。」とも普通に使います。

 ここから、日本語においては人の呼び方について、きわめて特殊な法則が作用していることを筆者は論じます。例えば、先ほどの例で子どもはお父さんを「お父さん」と続柄によって呼称しますが、逆にお父さんが「おい子ども」と呼ぶことはありえません。また、子どもが例えば二人の姉妹の場合、お父さんは姉の方を「お姉ちゃん」と呼ぶことはしばしばありますが、「妹/妹ちゃん」などと呼ぶことはまずないのではないでしょうか。ほかにも、教室で生徒は先生のことを「先生!質問があります。」と呼びますが、先生が逆に生徒を「なんですか、生徒」と言うことはありえません。会社の上司と部下もそうです。

 こういった事例をひきつつ、日本語の「自称詞」「他称詞」の用法の法則化を試みています。さらに興味深いのは、「親族名称の虚構的用法」です。例えば公園で小さな女の子が泣いていて、大人がこの子に話しかける際、「さあ泣かないで。おねえちゃんの名前なあに。誰ときたの。…そうか、お父さんとはぐれちゃったのね。おばさんが一緒に探してあげましょう。」と話しかけても、何ら不自然な点はないはずです。が、この女の子がお姉ちゃん(妹がいる)なのか、状況からはわかりません。「実際には血縁関係のない他人に対し、親族名称を使ってよびかけること」を「親族名称の虚構的用法」と呼びます(p.158)。後者の「おばさん」はそれにあたりますが、前者の「おねえちゃん」は単純な虚構的用法だけでは説明がつきません。

 ここで筆者は虚構的用法の特徴として、「自己中心語の原点を、子供に移す」ことを指摘しています。例えば父親が仕事で帰りが遅くなって、夕飯を母親と子どもが待っている際、ようやっと父親が帰ってきたら、母親は子どもに「パパ帰ってきたよ」と言うでしょう。母親から見れば「夫」ですが、「夫帰ってきたよ」や「●●(夫の名前)帰ってきたよ」とは言いません。また、家族で祖父母の家に遊びに行くとき、父親は子どもに「明日はおじいちゃんの家に行くよ」と言いますが、父親から見たら「(自分の)父親の家に行く」にすぎません。つまり、「目上が目下と対話する時に用いる親族名称が究極的には家族の最年少者を基準点にとり、呼びかけられる人あるいは言及される人物が、すべてこの最年少者から見て、なんであるかを表す用語で示される」(p.172)という法則を指摘しています。

 こうした用法自体は英語にも中国語にもあるのだろうと思いますが、「日本語の自称詞及び他称詞は、対話の場における話し手と相手の具体的な役割を明示し確認するという機能を強く持っている」(p.180)点を指摘し、「父親が自分のことをパパと称することは、自分が相手(息子)に対して持っている親という役割を言語的に確認すること」だと言える(p.184)としています。英語などの印欧語(おそらく中国語も)における自称詞や他称詞は、その発話の動作主を指し示す客観的指標にすぎません(I...と言うのは、今話をしているのは私ですよ、というマークにすぎない)。その点で、日本語は言語構造そのものが自分の役割や相手との関係性をきわめて重視する言語であると言えるのかもしれません(「役割語(キャラクター語)」もその文脈で発達したのかもしれません)。日本人が初めて参加する場で発言する時や初めて会う人と話すとき、なかなか口火を切れず、自分の立ち位置を探るような形になってしまい積極的な発言をためらう(不安を感じてしまう)のも、こういった言語的特質に因る点も大きいのかもしれないと思いました。この点で、言語は文化(社会的慣習)も規定しています。その話者の行動・思考様式を知る上でも、その言語によって世界をどう切り取っているのかを知ることは有用と言えそうです。「見えない文化」を知る上での足掛かりとなるのが外国語なのだと思います。

 最初の中国語の先生の問いに立ち返れば、「日本語は日本文化か」という問いには、「日本語は日本文化によって育まれており、日本文化によって日本語は規定されている」という答えがふさわしいのかもしれません。タマゴが先かニワトリが先か的な関係ですが、「ことばと文化」はまさにそのような関係なのだと思います。他方で、「日本語」を話す方は今や「日本人」だけではありません。そうした異なる文化的背景をもつ方による「日本語」も「日本文化」にフィードバックしていく時代になりつつあります。

 何はともあれ、ことばによって文化を知り、文化によってことばを理解する、そのような学びを続けていきたいと改めて思わせてくれた本でした。