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中国・北京在住(2018.8~)。主に読書記録。歴史/社会/言語/教育関係がメイン。

(読書記録)入江昭(篠原初枝訳)『権力政治を超えて―文化国際主義と世界秩序―』1998年

権力政治を超えて―文化国際主義と世界秩序

権力政治を超えて―文化国際主義と世界秩序

  • 作者:入江 昭
  • 発売日: 1998/09/25
  • メディア: 単行本
 

国際関係における文化の役割は何か?という問いに応えるべく、「文化国際主義」の観点から近現代の国際関係史の叙述を試みた著作。

章立ては以下のとおりです。

序章 文化国際主義とは何か

第一章 国際主義の創成

第二章 文化国際主義の開花

第三章 文化のひとり歩き――国際主義からの乖離

第四章 新しいグローバリズムと文化の底流

終章 国際関係の文化的構築へむけて

 序章の冒頭で、本書の目的について、「十九世紀後半以降の国際関係史を主権国家間の相互作用というよりもむしろ、個人や集団が国境を越えて織りなす行為の総体として描くことを本書は目的としている」と述べています(p.2)。伝統的に主権国家を主たるアクターとする国際関係論では、その帰趨は国家のパワーによって左右されると言われます(戦争は国家の合理的な選択によるパワーのぶつかり合いで、平和は勢力均衡の産物とされるなど)。パワーの源泉は第一は軍事力、そして経済力ですが、筆者はここに文化という軸の追加を試みます。加えて、国際関係を織りなすアクターには個人やNGO、国際組織も想定されますが、こうした人々・組織も文化の重要な担い手としています。

その上で、

さまざま地域出身[原文ママ]の個人や集団が文化的交流を通じて、国や民族とは異なる共同体を形成しようとしてきた。これらの人々は、[…]世界という共同体を大きく変質させ、国際問題に対する我々の理解を計りしれないほど豊かにしてくれたのであった。彼らの努力の源泉となったその功績を総称して、筆者は「文化国際主義」と名付けることとする。(p.4)

と、「文化国際主義」というキーワードを定義しています。

第一章では第一次世界大戦前までを扱い、文化国際主義の萌芽を捉えています。帝国主義ナショナリズムが噴出していたこの時代、「戦争の起こりにくい国際環境を作るためには、ナショナリズムを抑制するべく何らかの手を打たなければならないと考えた人々(p.24)」によって文化国際主義が立ち上げられました。

しかし、当時の限界として、あくまでこの「国際」はヨーロッパのみで構成されていました。一等国や二等、三等国という序列意識があり、ヨーロッパ以外の国・地域は後者と見なされて不平等な関係にありました。不平等な関係ながらも条約や主権国家体制という秩序に巻き込まれていく、あるいは主体的に改革を図っていくなかで、非西洋諸国は「ナショナリズム(近代国民国家としての自画像の模索)と国際主義(自らの国際社会の一員としての位置づけ」という両方の道を歩まなければならなかった(p.26)」のです。

1900年代に入るとしかし、ヨーロッパ以外の国々もアクターとして加わる場が生じ始めました(1910年、ベルギーで結成された国際組織連合など)。社会主義者も、国境を越えて価値観を共有する主体として文化国際主義に寄与しました。「1905年にロシアと日本の社会主義者アムステルダムで一堂に会し、当時進行中であった日露戦争に反対を宣言した(p.40)」という事実を初めて知りました。

しかし一方で、日露戦争における日本の勝利もあって、いわゆる「東西文明二元論」も登場し始めました。日本の一部の人々はここで日本が非西洋(東洋)の盟主であるという自己認識を持ち始めます(小熊英二『単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜』でも指摘されています)。

しかし、「東洋」世界の国々も加えた上で「国際主義」が再定義されるような動きまでは見られず、WW1に突入していきます。

 

凄惨な結果をもたらしたWW1は、ヨーロッパの知識人を中心に、ヨーロッパ域内に留まらない、そして国家という枠組みを超越した知的・文化的連帯の必要性を認識し始めました。

第一次世界大戦後の国際主義者は、自分たちの運動が画期的なのは、文化的、知的、心理的底流が国際秩序の土台であることを強調する点だと考えた。すなわち、平和と秩序はその根底においてあらゆる国の個人の思考様式に依拠するものであり、その思考様式とは、安全保障や、法的、経済的な問題を超越して一国の国益を世界の公益と積極的に結び付ける考えである。(p.76)

国益と世界の公益を結びつける」という考えが大変興味深いです。知的協力の連帯がいわば国際公共財として認知され始めたということではと思います。

その代表格がジュネーブに設立された知的協力国際委員会です。1926年にはその関連組織として国際知的協力研究所がパリに設立され、またその各国内機関も各地に設置されていきます。同委員会は戦後UNESCOに発展的に継承され、日本の国内委員会は国際文化振興会(KBS)設立に影響を与えます。しかしその名称からわかるとおり、これらの連帯はあくまで「知識人」が担い手でした。

他方で、大衆にも目を向けなければならないという認識は当初から文化国際主義者の中でもあったと指摘しています(p.86)。その例として筆者は映画、ラジオ、教育の3つを挙げています。特に3つ目の教育には留学生の交換もありましたが、その嚆矢として1908年にアメリカが、義和団事件賠償金の還付金で始めた中国の留学生招聘事業は重要だと思います(なお、その留学生の予備教育機関として設立されたのが清華学堂、現在の清華大学です)。日本もこのモデルを取り入れ、およそ15年後にはなりますが、中国を対象に対支文化事業(東方文化事業)を始めます。筆者はこれを「当時文化事業を専門とする政府機関としては世界最初のものであった(p.91)」としています。

また、この時期大衆文化として広まったのは主にアメリカの文化だったことも見逃せません。この点で「新たに認知された国際主義は文化的アメリカニゼーションと実質的に等しいものであった(p.102)」。この点は、渡辺靖『沈まぬアメリカ――拡散するソフト・パワーとその真価』で指摘されているアメリカ文化の浸透力(そしてそれは「アメリカという国家の文化」と言えるのか)という論点とも通じているように感じます。

いずれにせよ、いわゆる戦間期のこの時期、文化国際主義は国家を超えた枠組み、そして世界大の枠組みへと一気に開花したと指摘されています。

 

しかし、1930年代になるとその様相は一変します。世界恐慌に端を発して地域ブロックの形成が進み、国家の壁が再び高くなり始めます。また、イタリア、ドイツ、日本の枢軸国は全体主義的な国家体制を構築し、きなくさい時代に入っていきます。

しかし筆者はそのような時代にあっても文化国際主義の実践を図った者はいて、このような時代だったからこそ彼らの動きを見逃してはならないと唱えます。

それゆえ、世界各地において国際協調や国境を越えたコミュニケーションという理想が国家主義によって蹂躙され葬りさられていたときに、国際主義者が文化的領域を中心に献身的活動を継続していたことが注目されるのである。[…]多くの国の指導的知識人や文化交流の担当者は、国家主義が再燃したときでさえ、国際機関には活動の余地があること、そして、国際機関が戦争や侵略の災禍を防ぐには微力であったとしても、少なくとも人道主義という深遠なる理想の証としてその存在を維持できることを、あたかも世界に知らしめるがごとく、根気強い地道な努力を重ねたのであった。(p.126)

その例としてフランス、ドイツの間の教科書改訂共同作業や国際連盟による中国との間の学生交流や専門家派遣事業を挙げています。この信念は本当に学ぶべきもので、こうした「危機の時代」に行われた交流事業の事例を深く知りたいです。

他方でこの時期、「国際関係への文化的アプローチ」が国家を主体として行われるという新たな潮流も生まれ始めました。いわゆる「文化外交」の登場です。1938年にアメリカは国務省内に文化関係局を設立します。また、イギリスは1934年に半官半民の機関としてブリティッシュ・カウンシルを設立します。これは、ファシズム全体主義、さらにはソ連による社会主義というイデオロギーが世界へ膨張する動きを見せる中で、民主主義やリベラリズムといった価値観も発信していかなければならないという必要性があったためとしています。

一方で、日本も奇しくもイギリスと同じ1934年、国際文化振興会を設立します。また、日本は中国への侵略戦争を「自らの対外政策を文化的観点から構築しようと模索してい(p.148)」ました。1938年の東亜新秩序宣言「東亜ニ於ケル(中略)新文化ノ創造、経済結合ノ実現」はその一例です。ここでは先に述べた日本が「東洋文化の盟主」であり、中国もそれに与させなければならないという論理が働いていました(芝崎厚士『近代日本と国際文化交流――国際文化振興会の創設と展開』など)。いわば「文化」が侵略の論理を覆うヴェールとして機能したのであり、「その意味で、文化は国際主義の担い手としてではなく、帝国主義の手段として考えられていた(p.148)」。こうした動きはドイツにも見られました。

戦間期、そして第二次世界大戦に至るこの時代、ナショナリズムへの回帰が見られ戦争が勃発した国際情勢の中で懸命に文化国際主義の実践を試みた人々がいた一方で、文化が政治・外交の手段として利用されるような動きも見られ始めました。「文化のひとり歩き」という章題はまさに的を得ていて、「文化」が各アクターによって都合のいいように使われてしまったとも言えると思います。

 

WW2ののち国際連合やUNESCOといった機関が設立される中で文化国際主義は普遍化されたかのように見えましたが、他方で新たな課題にも直面したとしています。一つはとりもなおさず米ソの冷戦対立でした。「文化」はここでもプロパガンダイデオロギー広報として利用される側面もありましたが、一方でこのような冷戦構造があったからこそ、国境を越えた連帯を育まなければならないという発想から種々の交流事業が促進される面もありました。アメリカによるガリオア・プログラム、それを継承したフルブライト交流事業はその顕著な事例です。

しかし筆者は冷戦構造以上に、「それまで「ひとつの文化」を求めてきた文化国際主義に、第三世界が突き付けた挑戦は冷戦よりもはるかに深刻(p.198)」だったとしています。どこか西洋中心のところがあった「文化国際主義」、そしてそれが措定する「文化」という概念に、いわゆる第三世界の国々も与させていかなければならないという課題が浮上しました。これは言い換えれば「国境を越えた価値の共有という意識を保持したまま、文化的多様性を受け入れていく可能性を追求することであった(p.209)」。

これは骨の折れる作業ではありますが、筆者は以下のとおり展望を示しています。

もしも単一方向主義ではなく多方向主義な交流を進展させ、環境、人口等の世界的な課題に処理するために、世界のあらゆる文化的伝統の代表者が開かれた知的交流を維持し、同時に世界の多様な地域を代表する非政府の多国籍組織が強化されていくならば、文化国際主義は現代史の渾沌とした時代を生き抜き、相互依存が実行される協調的な共同体への道を示すことができるだろう。このような視点からすれば、文化国際主義の前に立ちはだかる最大の障害は、人間の多様性というよりも、国家主義的で視野の狭い自国中心主義であり、また、西洋と第三世界の対立そのものというよりも、両者が持っている排他的な態度であろう。(p.214)

人種や言語、文化の違いといった多様性よりも、むしろ視野狭窄な自国中心主義が文化国際主義の最大の障壁であるという指摘は、今もまさに妥当する至言だと思います。

 

終章では、国際関係史研究のアプローチは、大きく対外政策や戦略的決定がなされたプロセスを公文書等から詳細に検討する政策決定アプローチと、ある国内部の政治的、社会的、知的な環境から当該国家の対外政策およびそれを取り巻く国際関係を研究するアプローチに二分されるとした上で、本書は後者のアプローチに文化という視点から接近したものであることが述べられています。

本書のタイトルからもわかるとおり、筆者は文化国際主義を権力政治に対置しています。そして、

[…]あらゆる諸国における文化国際主義者は、文化的な国際主義者や権力政治的国家主義者に対抗する必要がある。つまり、国境を越えた文化的つながりの可能性を否定するような井の中の蛙的思考に立ち向かい、また同時に、軍事的要因を優先する政策への執着に異議を唱えるべきであろう。(p.232)

価値と関心を共有するという普遍性、変転する流行思想に妨げられることなく国境を越えたつながりと協調を推進することの永続性、国家の政策や権力政治的利益から距離を置く自主独立性、といった諸原則ができる限り多くの国で守られるならば、その行く手には、文化が中核となるような国際秩序が必ずや出現するに違いない。(p.232)

 と述べ、本書を締めくくります。

 

本書の日本語訳が出版されたのは1998年と、今から20年以上前です。『日本と中国のパブリック・ディプロマシー――概念変容に伴う新たな競争』で張雪斌先生が指摘されたように、2000年代以降、日本の「文化」と政治・外交を取り巻く政策には概念の変容――「文化」による競争やソフト・パワーの活用が生じており、文化国際主義の観点からすれば、新たな挑戦と言えるのかもしれません。

また、あたかも世界恐慌のときのように、新型コロナが蔓延する現在、国境の壁はおそらく戦後最高レベルに高くなり、自国第一主義の風潮もこれまで以上に見られます。もちろん国民の生命や健康を守るのが国家の役割なので、ある意味それはあるべき姿かもしれませんが、重要なことはそれが国家同士の対立、ひいては戦争に発展しないことであると思います。人類が叡智を結集する必要があるこの局面においてこそ、狭い「国益」に囚われない、まさに「国際主義」的な発想を、各国のリーダーたちには持ってほしいと願うばかりです。

そしてその潮流の中で、自分はどう振る舞うか。入江先生の言葉と指摘は、現代においてもなお色褪せず響いてくるものがありました。