道に志し、芸に游ぶ

中国・北京在住(2018.8~)。主に読書記録。歴史/社会/言語/教育関係がメイン。

(読書記録)青木保『異文化理解』岩波新書

異文化理解 (岩波新書)

異文化理解 (岩波新書)

 

 文化庁長官を歴任し、国立新美術館の館長を務める筆者による2001年出版の本著も、この分野ではもはや読み古された名作ですが、今更ながら読みました。章立ては以下のとおり。

Ⅰ 異文化へ向かう

Ⅱ 異文化を体験する

Ⅲ 異文化の警告

Ⅳ 異文化との対話

 Ⅰでは、冷戦後の世界においてグローバル化がますます進む中で、「文化」という要素が政治・経済に比肩するほどますます重要になりつつあることが指摘されています。

冷戦構造下では、東西の強大なイデオロギーによって、その構成員の文化の違いは相対的に捨象され、その相違はあまり問題になりませんでした。しかし、その対立の構造が崩れると、各国・地域の文化は直接的に接触し、その相違が軋轢や対立を引き起こすこととなります。

もちろん、文化の接触は、明治初期の日本が西欧文化に触れたように、またはヨーロッパでシノワズリジャポニスムといった東洋趣味が流行したように、それまでの世界でもありました。しかしそこでは、ときには「憧れ」となり、ときには「差別」となり、文化を上下の軸から垂直的に見る見方が中心的でした。現在のグローバル化世界においては、そうした両極端的な見方では通用しなくなってきていると指摘します。

 現在のように異文化をどう捉えるかが非常に重要になってきた時代においては、近代日本のように憧れと軽蔑といった二元的、あるいは好か悪かといった両極端の捉え方ではすみません。(中略)さまざまな異文化についての憧れは何によるのか冷静に判断するとともに、大したことはないと片づけてしまった文化についても、不当にも貶めて捉えてしまっているところがないかどうか、改めて検討しなければならないと思います。(p.40)

Ⅱでは、文化人類学者である著者が、タイで参与観察として実際に僧になった体験を引き、異文化を体験することの重要性を指摘しています。著者の、タイで実際に身をやつして現地の仏教文化に入り込んだ体験は壮絶ですが、とても面白いです。

 異文化を体験する際にキーとなる概念として、まず一つに「境界の時間」というものが挙げられています。例えばタイでは、僧になって体験した仏教の時間、土着の信仰による時間、そして「時計」というもので測られる近代的な時間という3つの時間が並行して流れています。日本でも、日本特有の古来の時間と近代的時間という2つが流れています。

こうした時間の流れ方は文化によって多様です。異文化理解とはこうした異なる時間の境界に触れ、体験することであると指摘しています。これは何も留学や駐在をせずとも、旅行や出張でも体験ができます。

もう一つは「儀礼」です。祭りや通過儀礼など、それぞれの時間における「区切り」に呼応する形で、象徴的なイベントとして種々の儀礼が行われます。そうした儀礼に接することも、異文化に接触する機会であると述べています。

 Ⅲでは、イギリス映画『インドへの道』やエドワード・サイードの『オリエンタリズム』を引きながら、異文化に対する偏見や無知、ステレオタイプが招く危険性について考察しています。

近代日本もそうであったように、異文化には憧れと軽蔑が憑き物です。それは人間の本質と言えるかもしれません。しかし現代においては、異文化に対する両極端的な軽率な態度や無知が、深刻な対立を惹起することもあります。

日本文化はソトからの文化をウチに取り込み、それを異文化と感じさせないぐらい消化して自分化に取り込むことで発展してきました。ゆえに、異文化というものを意識する機会が日常的には多くありません。こうした無関心が、外国では大きな誤解や悪感情を生むことも間々あります。

 また、ステレオタイプも、人間がさまざまな事象を効率的に情報処理する脳の働きであるため、それを抱いてしまうことはある意味仕方がありません。また、日本に対してステレオタイプが抱かれていることもあります。しかし大切なことは、そうしたステレオタイプを抱いてしまったのは、抱かれてしまったのは何故かという背景について考察することだと、筆者は指摘します。ステレオタイプを無批判に呑み込むのではなく、疑い、その根拠を探ることが、他者や異文化を理解する最初の一歩であると指摘しています。(p.116)

最後、Ⅳでは、文化における「対話」の重要性が説かれています。

現代の文化において「純粋な文化」というものはありません。古今東西、さまざまな文化の要素が組み合わさって、あるいは内に取り込まれて、自文化も成立しています。

こうした、文化の「交わりながら発展し、形づくられていく」側面を筆者は「混成文化」と呼んでいます。文化の混成度合に応じて、その文化の固有性というものが生まれていきます。

こうした文化の特長を踏まえ、筆者は最後に「自文化を通した異文化理解に到達する」ことの重要性を強く主張します。自分たちの文化は純粋に自分たちの要素のみで成り立っているわけではなく、種々の文化が混成することで、その固有性が生まれています。であれば、自文化を見つめることで、そのなかさまざまな異文化の要素が潜んでいることに気づくはずです。自文化と異文化もつながっている、そう認識することで、憧れや軽蔑の視点―異文化を単に「他者」とみなす視角―を越えて、心からの理解に到達することができるはずです。

 2001年のこの著書で筆者は、「いずれ(アジアの)各地でふるさと探しが始まり、「自文化の発見」が社会の主要なテーマになる時代ややってくると思います」と指摘していますが、まさに現在、そのような流れが日本も含め、社会全体を覆っているように感じます。

自文化にノスタルジックに回帰すること自体は、この急速なグローバル化に対する反作用として、ある種自然なことかもしれません。しかしそれが、偏狭な自文化中心主義やナショナリズムに回帰してしまっては近代の歴史を繰り返すことになります。それはハンチントンの指摘する「文明の衝突」にも似た事態に行きつく可能性もあります。

日本の文化が世界に誇るものであることに異存はありません。しかし、何も日本の文化のみが世界に誇れるわけではなく、各国・地域・民族すべての文化が、世界のなかで尊重され、かけがえのない文化であると思います。

また、日本の文化といってもそれは「日本」という域内の要素のみで発展したわけではなく、多様な文化が混成されて形づくられてきたものであり、そうした視角から文化を見つめ直すことで、異文化理解の契機にもなるのではないでしょうか。

異文化理解というと、日常生活とは縁のない遠いもののように感じられるかもしれません。しかしそのきっかけは自分たちの文化を見つめ直すことにあります。これからますますヒト・モノ・カネ・情報の流れがボーダーレス化し、社会もますます多様になっていくなかで、こうした視座から文化を見つめることは避けて通れないと、改めて感じました。