道に志し、芸に游ぶ

中国・北京在住(2018.8~)。主に読書記録。歴史/社会/言語/教育関係がメイン。

(読書記録)暉峻淑子『対話する社会へ』岩波新書

対話する社会へ (岩波新書)

対話する社会へ (岩波新書)

 

 『世界史との対話』の小川幸司先生がオススメの岩波新書を紹介するページ(コンテンツ|B面の岩波新書|Web岩波新書|岩波書店)で取り上げられているので、kindleで読んでみた1冊。章立ては以下のとおりです。

第1章 思い出の中の対話

第2話 対話に飢えた人々

第3章 対話の思想

第4章 対話を喪ったとき

第5章 対話する社会へ

 「対話」とは何か。筆者は、「戦争・暴力の反対語は、平和ではなく対話」と考えています(位置21)。

自分が自身の考えをただ滔々と語ることばは、対話とは言えません。常に相手とのことばのキャッチボールを意識し、考えを深めていく営み。筆者による明確な定義はありませんが、対話には以下の特長があります。

・対話は、議論して勝ち負けを決めるとか、意図的にある結論に持っていくとか、異議を許さないという話し方ではない。
・対話とは、対等な人間関係の中での相互性がある話し方で、何度も論点を往復しているうちに、新しい視野が開け、新しい創造的な何かが生まれる。
・個人の感情や主観を排除せず、理性も感情も含めた全人格を伴った自由は話し合いをする。
(以上、位置74)

このような対話は、生まれてすぐの子どもが親と行うコミュニケーションに見られるように、「人間の本性にもっとも添ったコミュニケーションの手段」です。だからこそ、「人間と人間の間をつなぎ交流させ、個人を成長・発展させる場であった対話は、民主主義の培養土でもあ」り、「人類が多年の経験の蓄積の中で獲得した対話という共有の遺産を、育て、根づかせることが、平和を現実のものとし、苦悩に満ちた社会に希望を呼び寄せる一つの道ではないか」と提案しています。

第1章では、筆者が人生を回顧しながら、対話と出会った場面について振り返ります。

一番最初の記憶は、幼かった自分を一人の意思を持った人間として扱った祖母の存在だったそうです。また、学者であった筆者の父も対話を重んじました。筆者が父から学んだ、「おカネのためでもなく、地位のためでもなく、ただただ真実を極めようと、好きなことに打ち込むことを最高の楽しみとする人生にとって、それに代わるどんな楽しみがあるというのでしょう。」という言葉は胸に響きます。

また、筆者が子どもだった戦前は、「命令はあるけれど対話がない時代」でした。「自立した個人も対等な人間関係もない軍隊の文化が、社会全体に浸透していた時代」です。だからこそ家族との対話のなかで学ぶことが大きかった。

戦後、自由主義と民主主義のもと、一般の人とも自由な対話の機会が増えました。しかし筆者は、現代における対話の希薄化を重大な問題と捉えています。すなわち、「自主的な議論を許さなかった独裁権力の代わりに、効率性と利潤追求が対話を奪ってしまったのか」と。(位置510)

第2章では対話とはどのようなものかが、筆者の講演をきっかけにある地域で始まった「対話的研究会」を例に紹介されています。

市民が自由に話したいことを持ち寄り、自由に話し合うというこの研究会は、まさに対話を促進するものでした。人はだれしも表現したいことがあり、それを受け入れられたいという欲求があります。受け入れられることで一人の人間としての主体性を獲得していきます。対話的研究会は、現代社会において希薄化しつつある対話を行う場を創出することで、参加者が多様な考え方を知るとともに、自身の考えと自我を深める機会となりました。筆者も指摘しているよう、こうした市民間の対話は、民主主義の基礎になるものだと思います。

個人にとっても、社会にとっても、それほどに根源的な必須の条件である対話を、忙しいとか、政治的なリーダーシップにまかせたほうがいいとか、ボスの気持ちを忖度して、対話も議論もなしに賛成するとか、どこに責任があるか不明なまま決まってしまう(中略)ということは、三大栄養素の中の必要な食べ物(たとえば、たんぱく質)を省略して生体を無理に生きさせようとするに等しく、個人も社会もいつの間にか健康を喪い、生き生きと活動できなくなるということではないでしょうか。(位置1235)

第3章では、筆者が影響を受けた対話に関する先行研究を引きつつ、対話がなぜ人間に不可欠なのかが述べられています。

先に引いた子どもと親の対話の例にあるように、人は対話を通して自己の内的思想を発達させていきます。また、現代の世界において普遍的な価値となっている人権という思想も、各人が内的な思想を持ってそれを自由に発出できなければ、成長しません。その点で、人権の基礎にもなるものです。

ヴィゴツキーの先行研究を引きながら紹介されている、子どもが対話によって知的水準を発達させていく過程はとても興味深いです。

さらにバフチンの思想として、「対話は身体性を持つ」点を紹介しています。対話によって人間は他者とつながり、そしてそのつながりを意識することで、空間、そして世界とつながります。加えてそうして生み出された言葉も、対話のなかで新たな意味を獲得し、価値として社会的意味やアイデンティティを形成していきます。

 権威主義的な話し方、聞き手に自分の考えを押し付け思い込ませようとする、閉ざされたものです。それに対して、対話は開かれています。お互いに応じあう中で新しい意味が生まれ、変化し、新しい理解が生まれる可能性が広がっていきます。「対話」はともに考えていく手段であり、そこでの理解は、一人の人間の可能性を超えるものとして、お互いの間で作られていきます。こうしたことを達成するためには、対話の参加者が耳を傾け、相手に届くような応答をする必要があります。応答は言葉の持つ基本的性質なのです。その意味ではお互いの責任ある態度が対話的関係を作り出すとも言えるでしょう。(位置1700)

第4章では、対話を欠いたことによって悲惨な結果が生じてしまった事例について紹介しています。具体的には、学校の教育現場、笹子トンネルの天井版崩落事故、住民を無視して進められた高架下工事の問題です。

これらの問題に共通しているのは完全なる上意下達の思想です。上の判断が絶対、それに対して対話をはさむ余地はないという考え。行政の判断は絶対で、住民はそこに対話をはさむ余地はないという考え。いずれもきわめて独善的なものだと思います。筆者曰く、「昨今、社会に大きな悪影響を及ぼした事件は、いずれも上の人への忖度が先立ち、率直な議論ができなかった点で共通しています。当事者たちのプロとしての判断基準は、上の人の意中を読むことだったようです。」(位置1770)。

先に筆者も指摘していたように、対話には責任が伴います。自分の意見や考えを表出するからには、それをまずは自分で受け入れ、責任をもって述べる必要があると思います。自分が発した言葉には「自分」というラベルが貼られます。

たしかに上意下達は合理的です。この世にあまたある事象に等しく通じるルールを制定することももちろん必要です。しかし、命令やルールはあくまで命令やルールで、その下にある状況や人々はきわめて多様です。そうした多様な現実と「対話」を行い、皆が少しでも納得できる形で物事を進めていく姿勢こそ「プロ」なのではないかと思います。命令やルールが必ずしも多様な現実に符合しているとは限らないからです。

その際に勇気をもって自分の言葉を発することができる、そんな土壌が現代社会には決定的に欠けているのではと考えます。いま方々で「多様性(diversity)」の重要性が謳われているのも、そうした危機感を反映しているのではないでしょうか。

著書名と同じ章題のついた第5章では、どうすれば対話する社会を実現できるかの糸口が、いくつかの事例を引きながら紹介されています。

対話を行うことで人は社会に受け入れられ、主体性を持ちます。「おかしいと思ったら、まず、自分たちの言葉で話し合ってみる、開かれた「対話の場」があることで、問題は自分のものになります。」(位置2362) 結論は必ずしも求められません。「対話の過程での新しい発見や思考にこそ意味があります。」(位置2509)

多様性が重んじられすぎると収拾がつかなくなるという考えもあるかもしれません。しかし筆者によれば、「多様性そのものが問題を引き起こしているのではありません」。「対話のない生活、社会の中で差別が横行し、コミュニティから疎外され、人びとが関係性を喪って、暴力的な解決に出たり、その反対に思考停止の無関心が当たり前になっていくことが問題なのです。」(位置2579)

 

対話は、思った以上に実践は難しいものだと思います。自分の言葉を発するのは勇気が要ります。また、他者の言葉を聞くのも場合によっては勇気が要ります。話の方向の収拾がつかなくなる心配もあります。

しかしそれでも対話は必要なものだと思います。筆者の指摘しているよう、対話の希薄化は、下手をすれば戦争や暴力につながる危険性を秘めたものだからです。

『世界史との対話』のなかで小川先生も『資本論』の言葉を援用しながら紹介していましたが、現代は「物証化」が進行している社会です。人間は生産手段の一要素として捨象され、その再生産・活用としての施策が多く感じられます。人が単なる社会の歯車に陥らないよう、対話という潤滑油(あるいは接着剤)が必要不可欠だと思います。人が一人の主体として伸び伸びと多様性を発揮できる際にこそ、生産性も最大化されるのではないでしょうか。そうした形での最大化のために、民主主義があり、官吏も存在するのではないかと個人的には思います。

著者の語り口は優しくも、社会に根付く深刻な問題について鋭く指摘しています。一歩一歩、まずは自分の周りから「対話」を始めてみたいと思います。