道に志し、芸に游ぶ

中国・北京在住(2018.8~)。主に読書記録。歴史/社会/言語/教育関係がメイン。

(読書記録)河路由佳『日本語教育と戦争―「国際文化事業」の理想と変容』新曜社

日本語教育と戦争―「国際文化事業」の理想と変容

日本語教育と戦争―「国際文化事業」の理想と変容

 

  本日から中国は「春節旧正月)」の大型休暇に突入。今日は大晦日にあたる除夕で、明日が新年の始まりにあたる初一です。中国の暦に合わせて職場も休み。後半は旅行の予定がありますが、前半はどう過ごそうか…と考えたところ、せっかくなので日本語教育に関する本を読んでインプットしようと思い至りました。

 一冊目として読んだのが、東京外大・河路先生のこちらの本。戦前の「国際文化事業」としての日本語教育を扱った本です。

戦前の日本語教育と言えば、植民地統治を行った韓国や台湾、「満洲国」、そして太平洋戦争中に占領した東南アジア諸地域に対して行った日本語教育がまず思い浮かびますが、それとは異なる文脈で、「国際文化事業」の一環として模索された日本語事業も存在しました。

その始まりからアジア・太平洋戦争後の顛末に至るまで、史料や関係者へのヒヤリングをもとに、政策次元/当事者の意識という個人次元の両面から論じた著作です。

章立ては以下のとおりです。

序章 「国際文化事業」以前の日本語教育

第一章 「国際文化事業」の幕開け―国際文化振興会と国際学友会の創立

第二章 国際文化振興会における日本語普及事業の展開

第三章 国際学友会における日本語教育事業の展開

第四章 日本語普及(教育)事業と敗戦

終章 新しい理念の構築に向けて

  章立てから明らかなとおり、戦前の「国際文化事業」としての日本語教育の主要アクターとして、国際文化振興会と国際学友会という二つの機関を扱っています。前者は今日の(独)国際交流基金、後者は(独)日本学生支援機構の東京日本語教育センターの前身です。ともに外務省管轄下にあり、前者は今日でいう外交政策としての国際文化交流の文脈から、後者は来日した中国以外からの留学生に対する予科として、日本語教育を展開しました。

 しかし両機関とも、その設立時点から日本語教育を主たる柱として掲げていたわけではありません。

現在の国際交流基金日本語教育を主たる事業分野の一つに置いていますが、その前身の国際文化振興会では設立時点においてはまったくと言っていいほど重視されていませんでした。専ら(外国語による)日本文化の紹介にその主眼があり、当機関の事業対象がそもそも欧米で、日本語を学ぶことは難しいだろうしその必要もない(外国語で発信すればよい)と思われていたためでした。

 しかし、日本語を高度に操り日本研究を行う欧米人も多数いることに気づき、「世界各国で日本語研究熱が上がっており、日本語学習に対する関心も深まりつつある」という時局認識のもと、日本語教育についても展開が検討されていきます。

そして、教材やそのもととなる辞典等の編纂事業をはじめとして、「日本語普及編纂事業」七カ年計画が1940年に立ち上がりました。が、日中戦争はすでに泥沼化し、太平洋戦争開始も迫ったこの時期、実施主体の国際文化振興会の所轄が外務省から内閣情報局へ移管されることに伴い、次第にその日本語事業は「東亜の共通語」としての日本語普及という文脈で行われることとなりました。その対象は欧米から仏印(フランス領インドシナ)やタイなど南方地域となり、「対南方文化工作」をもっぱら行う機関となって、戦争の一端に絡めとられたのでした。

 国際学友会もその設立当初は来日した留学生に対する寄宿舎の提供や日本文化体験の機会提供、留学生同士の交流(「保護善導」)が活動の中心でしたが、留学生から日本語教育をサポートの一環として求める声が大きくなったのを受け、1943年に「非漢字文化圏出身の留学生に対し、日本の高等教育機関への進学準備の日本語教育を行なう一年制の日本語学校を開設」しました。これは「当時としては不可能を可能にしたといってよい大きな達成」でした(p.209)。

史料や関係者の言葉にもとづいて丹念に記述されるこの実現のために尽力した人々や、ここで日本語を学んだ/教えた人々のストーリーには胸を打たれます。しかし開校後まもなく、同校の教育方針も陸海軍省や大東亜省の指導の下の実施を免れなくなり、次第に「対南方文化工作」の色合いを濃くしていきます(南方地域からの留学生受け入れ)。

 この本から2つの示唆を得ました。

一つは、両機関の活動は先に述べたように「大東亜共栄圏」の構築という戦争目的の遂行に奉仕したという評価を免れませんが、「国際文化事業」としての日本語教育がこうした形で、ときの政権の方針に抗うのが困難な構造的危険を孕んでいるということです。

筆者も指摘するよう、「日本語教育の現場の運営は、周りからの支援を必要とすることが多」く、「政府の援助が不可欠」ですが、それが「学習者の利益を損なわず、世界の平和安定に貢献するものであれば、問題のあろうはずはない」と言えます。

しかし、「国策が学習者の利益と違う方向へ向かったとき」に、「教育現場がそれに加担してゆく構造から、われわれがそう自由でないことは認識しておく必要があ」ります(p.286)。これは何も日本語教育に限った話ではないのかもしれませんが。

 国際学友会は次第に国策的な色合いを強めていきましたが、それでもそこで学んだ留学生の中には、戦後に自国と日本の架け橋として活躍した方もいれば、かつての恩師を尋ねに日本を再訪した方もいます。その陰には、同校の先生の学習者に対する理解や思いやりがあったのだと思います。

 社会の変化によって、教育理念や政策は変わるが、教員やスタッフが、学生の一人一人を大切に理解と愛情をもって交流しようとした当初の素朴な「萬邦協和」の精神は、危ういところで国際学友会の「国際教育」を支え、戦後に貴重な人のつながりを遺したのではないだろうか。(p.288)

 学習者に接する現場の「思い」の大切さはいつの時代も変わらないのかもしれません。厳しい時代にこうして前線で接した人々の営みを、歴史から学ぶ必要があるのだと思います。

 2つ目は、筆者が終章で指摘している、「「文化侵略」性の強い現場にも「文化交流」は生まれるし、「文化交流」を目的とする善意の現場にも「文化侵略」性は潜んでいる」とし、「「国際文化(交流)事業」としての日本語普及の理念そのものにも、問題があったことを認めないわけにはいかない。」点です。

 戦前日本の文化交流は基本的に、「正しい日本」という単一的でナショナリスティックな国家像を諸外国に発信していくというものでした。それが欧米に対しては水平的に、アジア各国に対しては垂直的に行われ、戦間期の国際協調の文脈で生まれた「国際」的営みであったにもかかわらず、国粋主義とある意味で密接不可分だったことは、多くの先行研究で指摘されています。

これは「日本語」についても言えます。今日にも生かされている教授法は生み出されましたが、あくまでも「正しい日本語」を措定し、言語的距離感から習得が難しいであろう欧米人には程々に、近似性も高いアジアの人々には徹底的に植え込んだのが戦前の日本語教育でした。

翻って現在の「日本語普及」を見た際に、その一つの「正しい日本語」を措定するという性質は、変わっているのでしょうか(もちろん戦前のような一方向的な教育とは一線を画しますが)。

学習者の中には、きっちりした日本語を学んで生活や仕事で生かしたいという方もいると思いますが、中には単に興味関心で学んでいる、日本で短期間暮らすために最低限のコミュニケーションが取れればいいという方もいると思います。そういった方々が使う「日本語」は「正しい日本語」である必要はあるのでしょうか。

日本を学ぶニーズも多様化していれば、「日本語」の姿も話者によって多様化しているのが現在なのではないかと思います。そうした多様なニーズに応えるとともに、多様な日本語の在り方を許容し、そこから「正しい日本語」(あるいは母語話者が「正しい」と許容できる範囲や基準)そのものが変容していく必要があるのではないでしょうか。

以前参加したシンポジウムで、とある先生がJapanese as an international languageという考えを示していらっしゃいましたが、その先生のおっしゃるとおり、「国際言語」としての日本語は決して「正しい日本語」である必要はないはずです。

 日本語教育における日本語は、「日本人らしさ」「日本的」であることからむしろ、「日本語」を解放することの可能性にこそ、意義が求められるべきではないだろうか。非母語話者が日本語を使用することによって、日本語そのものは文化触変を経験し、新しい日本語の文化を創造してゆくことを、積極的に肯定してゆくという思想の転換が求められる。(p.317)

 河路先生のご研究は今から100年近く前の日本語教育像についてでしたが、ボーダーレス化やグローバリゼーションによって国家の意味合いも相対化しつつある現在、きわめて今日的意義を持っているのではないか思いました。